『なぜ人は締め切りを守れないのか』読書メモ
締め切りと「生きている時間」の根源的な乖離
私たちが締め切りを前にして覚えるあの特有の憂鬱と焦燥は、単なる能力不足や意志の弱さに起因するものではない。それは、外部から要請される〈締め切りの時間〉と、私たちが内実に即して経験する〈生きている時間〉との間に横たわる実存的・質的なずれの顕現である。
時間概念の二元論的分析:支配と実存
本書が提示する時間の構図は、極めて政治的である。
- 〈生きている時間〉: 身体の疲労、他者からの予期せぬ呼びかけ、あるいはケアの労働によって刻まれる非連続的で伸び縮みする時間。これはスムーズな流れではなく、寸断され、重なり合う質的な時間である。
- 〈締め切りの時間〉: 私たちの生の固有のリズムを無視し、特定の行動を強制的に同期させる外的な力。これは個人の実存を特定の枠組みにぎゅっと押し込む暴力性を孕んでいる。
〈時計〉という権力装置の再定義
時計とは、単に壁に掛かった物理的な計測器を指すのではない。Googleカレンダー、タスク管理アプリ、あるいは社会的な制度や行為そのものが、現代における〈時計〉である。締め切りとは、まさに人々に一定の行動を特定の時期までに行うよう強制し、生の質を規定する「政治的な装置」なのだ。私たちは中立な時間の中にいるのではなく、特定の設計に基づいた時間的権力構造の中に「住まわされて」いるのである。
「プロジェクト化」という鉄の檻:社会が時間を簒奪する構造
現代社会を覆う「プロジェクト」という枠組みは、私たちの日常を侵食し、生の時間を効率という名の下に簒奪する。
プロジェクトの変質と「時間疎外」
歴史を遡れば、17世紀のダニエル・デフォーが描いた「投機的航海」に見られるように、プロジェクトはかつてリスクを伴う例外的な企てであった。しかし、近代資本主義の進展は、マックス・ウェーバーが指摘した「鉄の檻」として、時間を貨幣(資源)へと徹底的に再定義した。エスペン・ハマーが論じるように、この「資源化」は「時間疎外」を引き起こす。一瞬一瞬が不可逆的な消耗品となり、生から「永続性」が失われ、私たちは加速する消費の濁流の中にどっしりと居座る場所を失ってしまうのだ。
エスコバルによる構造的暴力の解剖
デザイン人類学者アルトゥーロ・エスコバルは、近代的な「計画(=プロジェクト)」が孕む4つの致命的な問題を鋭く批判する。
- 問題設定の独占: プロジェクト始動時の「問題設定」が推進側の合理性のみで行われ、当事者の視点が徹底的に排除される。
- 専門知の横暴: 専門家が指定する「正しいやり方」が、私たちの固有の生活リズムを間接的に侵食する。
- タイムラインの強制: 身体的・社会的リズムと衝突するスケジュールが内面化される。
- 責任の転嫁: プロジェクトは責任を可視化し、構造的問題を個人の「自己責任」へとすり替える。
内面化される統治:自己効力感の罠
ミシェル・フーコーの統治論を時間軸で捉え直せば、現代の労働者は自ら進んで締め切りに同期しようとする「時間的自己規律」の主体である。働き手は「時間を管理できている」ことに自己効力感を覚えるが、それはハートムート・ローザが呼ぶ「余暇の逆向きの植民地化」を自ら推進しているに過ぎない。
私たちは、暴走するプロジェクトという装置から主権を取り戻さなければならない。そのためには、鬱屈や違和感といった自身の「情動のメッセージ」を信頼し、プロジェクトそのものの妥当性を問う「問題の批評」を行う実存的エージェンシーが必要である。
多元的な時間の探索:物語と「遊び」のタイポロジー
線形的・効率的な時間という単一の支配から逃れるためには、人間が持ちうる多元的な時間経験を再発見し、複数の〈時計〉を使い分ける戦略が求められる。
「物語的不正義」への抗い
アラスデア・マッキンタイアの「物語的美徳」は生に一貫性を与えるが、一方でそれは「物語的不正義」を招く。社会が求める「成功物語」や、がん患者に期待される「困難を克服する成長の物語」という枠組みは、言語化できない生の苦しみを抑圧し、一貫性を持たない「エピソード的自己」を透明化してしまう。
4つの「オルタナティブ・クロック」
物語以外の時間性を回復させるための戦略的ツールとして、以下の「遊び」のタイポロジーを提示する。
- ゲーム: 反復と成長の時間。ニーチェ的な「力への意志」を伴い、マイルストーンによる区切りを通じて困難を克服する喜びを生成する。
- ギャンブル: 断絶の時間。過去の蓄積や連続性を一瞬で切断し、「断絶された自分」へと変容する劇的な飛躍をもたらす。
- パズル: 遡行の時間。既知の正解(過去)へと静かに没入し、未知の将来への不安を一時的に停止させる静謐な拠点となる。
- おもちゃ: 軽やかさの時間。ガダマーが説く「軽やかさ」を体現し、ゴールなき現在に没入することで、人生の緊張(プロジェクト)から離脱する。
「層状の時間」の実践
私たちの現在は、単一の点ではない。過去のジェンダー規範などの亡霊が現在のリズムを歪め、同時にエルンスト・ブロッホが説く「未だ来ざるもの」への希望が未来から現在を照らしている。この「層状の時間」を認識することこそが、単一の締め切りに支配されないための「抜け道」となる。
時間正義のデザイン:ケイパビリティ・アプローチによる変革
時間を効率の対象から「正義」の対象へとシフトさせる。これは単なる管理術ではなく、社会構造の再設計である。
簒奪される「諸価値」
デヴィッド・グレーバーは、計量可能な単数形の「価値(Value)」と、計量不可能な複数形の「諸価値(Values)」を区別した。現代社会は、生産性という「Value」のために、愛やケア、休息といった「Values」を体系的に簒奪している。この「時間の簒奪」に抗議する「時間倫理学」の確立が急務である。
時間正義の3つの柱
アマルティア・センのケイパビリティ・アプローチを応用した「時間ケイパビリティ」の概念を用い、以下の指標で生の質を評価する。
- 時間自主性: 外部の呼びかけに即応することを強要されず、自らの時間を決定できる裁量権。
- 時間満足度: その過ごし方から得られる主観的なウェルビーイングの質。
- ケア時間: 暮らしの土台となる、非生産的だが実存的に不可欠な「生のメンテナンス時間」の確保。
戦略的ツール:時間アセスメント
環境影響評価と同様に、あらゆるプロジェクトの策定時に、その計画が参加者の「生きている時間」をどれほど毀損するかを事前に評価する「時間アセスメント」の導入を提案する。これは「魂のための環境アセスメント」であり、資本主義リアリズムという「鉄の檻」に穴を開けるための実践的介入である。
デッドラインの本性:死、終わり、そして意義ある選択
締め切りの究極の形態である「死」を見つめることは、逆説的に「いい時間」をデザインするための絶対的条件となる。
不死という名の地獄
サミュエル・シェフラーやウィリアムズが論じるように、終わりなき生(不死)は望ましいものではない。無限の時間は「条件なしの欲求」を磨耗させ、自己同一性を崩壊させる。ボルヘスが描いた不死の人々が「究極の先延ばし存在」として退屈に沈むように、終わりがないことは選択の重みを奪い去る。
不都合な「幸福の蝶番」
死という締め切りがあるからこそ、愛や創造、ユーモア、連帯といった価値あるものたちは色褪せずに輝く。死はそれ自体は不愉快な不幸かもしれないが、生に輪郭を与え、私たちの選択を「取り返しのつかない冒険」へと昇華させる「幸福の蝶番」なのだ。
結び:自分自身が「線」となる決意
私たちが締め切りを守れない真の理由は、私たちの〈生きている時間〉を抹殺しようとする欠陥ある〈時計〉のデザインにある。
私たちがなすべきは、簒奪された時間を語り、表現し、取り戻す「時間正義」の実践である。外から引かれた「締め切り」に脅え、翻弄される段階はもう終わりだ。千葉雅也が提唱したように、私たちがなすべきは、外的な線に対して程よい距離を測ることではなく、「自分自身が、自分のデッドラインになる」ことだ。自分自身がどこで終わり、どこから新しい生を描くのかを自ら決定する。その能動的な「時間デザイン」の決意こそが、この「鉄の檻」から脱出するための唯一の鍵となる。